おじいちゃん関西大学へ
2008年01月17日
大正十年。ボクのおじいちゃんは岡山の旧制津山中学を無事卒業しました。
と言っても、自分の体が不自由なせいで行きたかった美術学校への進学も断念。
そんな時、大阪の朝日新聞に関西大学が新装するというお知らせを発見。さっそくおじいちゃんは規則書を取り寄せる。
見ると、新大学令により設立されるものであり、入学条件に身体のことは何も書かれていない。
案の定、ひいおじいちゃんは猛反対。しかしおじいちゃんは「三日三晩、父につきまとい懇願した」と自分史「賢太郎抄」に書かれています。
こうしておじいちゃんは、大正十一年九月 関西大学専門部法律科へ無事入学が許可されたのです。
この人、誰かわかります?
児島 推謙(こじま これかた)
明治24年、滋賀県で津田三蔵巡査がロシア皇太子ニコライに刀で切りつけ負傷させた。
当時の政府は対ロシア外交を考慮して津田の死刑を要求したが、大審院長児玉惟謙は司法権の独立のために拒否した。
と、歴史で習ったこの人が、関西大学のの校祖と言われています。(前身:関西法律学校)

おじいちゃんの撮った写真 その21
看護婦さんですね。
こういう格好がその頃の制服だったんですね。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめ。
と言っても、自分の体が不自由なせいで行きたかった美術学校への進学も断念。
そんな時、大阪の朝日新聞に関西大学が新装するというお知らせを発見。さっそくおじいちゃんは規則書を取り寄せる。
見ると、新大学令により設立されるものであり、入学条件に身体のことは何も書かれていない。
案の定、ひいおじいちゃんは猛反対。しかしおじいちゃんは「三日三晩、父につきまとい懇願した」と自分史「賢太郎抄」に書かれています。
こうしておじいちゃんは、大正十一年九月 関西大学専門部法律科へ無事入学が許可されたのです。

この人、誰かわかります?
児島 推謙(こじま これかた)
明治24年、滋賀県で津田三蔵巡査がロシア皇太子ニコライに刀で切りつけ負傷させた。
当時の政府は対ロシア外交を考慮して津田の死刑を要求したが、大審院長児玉惟謙は司法権の独立のために拒否した。
と、歴史で習ったこの人が、関西大学のの校祖と言われています。(前身:関西法律学校)
おじいちゃんの撮った写真 その21
看護婦さんですね。
こういう格好がその頃の制服だったんですね。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめ。
Posted by UDマン at 08:28│Comments(0)
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