おじいちゃんの写真館:曾祖母
2008年02月14日
~ボクのおじいちゃんは14年前に94歳で亡くなりました~
~明治36生まれのおじいちゃん、写真家になりたかったほど写真好きな人生を送りました~
おじいちゃんの撮った写真 その49
おじいちゃんのお母さん、つまり「ひいおばあちゃん」の写真です。
たすきには「大日本国防婦人会」と書かれています。戦時中ですね。
ちなみに、このひいおばあちゃんの若い時の写真がこれ↓
この写真を貼った台紙に
明治四十年九月十六日写 三十三歳
と書いてあります。
おじいちゃんの写真館<出征>
2008年02月13日
~ボクのおじいちゃんは14年前に94歳で亡くなりました~
~明治生まれのおじいちゃん、写真家になりたかったほど写真好きな人生を送りました~
おじいちゃんの撮った写真 その48
写真の痛みがあってハッキリとはわかりませんが汽車を見送っている様子です。
日の丸を振っています。
出征でしょうか。
おじいちゃんの写真館<合掌>
2008年02月12日
ボクのおじいちゃんは14年前に94歳で亡くなりました。
明治生まれのおじいちゃん、写真家になりたかったほど写真好きな人生を送りました。
そのおじいちゃんの写真館です。
おじいちゃんの撮った写真 その47
どこかの学校でしょうか。
全員、手を合わせて合掌しています。
女生徒?はみんな着物です。
おじいちゃんの写真館 №2
2008年02月11日
ボクのおじいちゃんは14年前に94歳で亡くなりました。
明治生まれのおじいちゃん、写真家になりたかったほど写真好きな人生を送りました。
そのおじいちゃんの撮った数々の写真はおじいちゃんシリーズで紹介していきましたがまだたくさん保存されています。
「おじいちゃんの写真館」で紹介していきます。
おじいちゃんの撮った写真 その46
昔の栗林公園での写真撮影会と思います。
素人カメラマンがモデル(舞妓さん?)を撮ってるところを撮っています。
おじいちゃんの写真館創刊
2008年02月10日
明治生まれのおじいちゃん、写真家になりたかったほど写真好きな人生を送りました。
そのおじいちゃんの撮った数々の写真はおじいちゃんシリーズで紹介していきましたがまだたくさん保存されています。
おじいちゃんの写真館のスタートです。
おじいちゃんの
撮った写真 その45
昔のお遍路さんでしょうか。
この写真も何かの
懸賞受賞作品です。
これがおじいちゃんの懸賞写真
2008年02月10日
そして・・
「おめでとうございます。「初夏の瀬戸」が一等入選です!」
「あの雲がなんとも言えぬ程良く撮れていて初夏の感じ満点であります、と、審査委員全員が感服しました。」
おじいちゃんは、思わず膝をたたき、「雲か、やっぱり雲だったのか!風景には雲だ」と感無量に浸るのでした。
そして、昭和九年六月十五日の大阪朝日新聞香川版に堂々と「初夏の瀬戸」が大きく掲載されたのです。
こうして、おじいちゃんの写真人生は幕を開け、その後も数々の賞をいただき94歳で亡くなるまで写真とともに生きていくのでした。
「初夏の瀬戸」

豊島にかかる初夏の雲。日本郵船の上海丸が白波を蹴立てています。手前が男木島の灯台でその高台から撮影しています。(古い写真にて多少の痛みはご勘弁を)
長い間、おじいちゃんシリーズをお読みいただきありがとうございました。
自分史「賢太郎抄」は全16巻に渡り、これを読破するにはなおお時間をいただきたく、
明日からは「おじいちゃんの写真館」を開始します。おじいちゃんの撮った写真を毎日紹介していきますので~!
賢太郎おじいちゃんに感謝。 どら孫より。
おじいちゃんシリーズまとめ。
おじいちゃんの懸賞結果は?
2008年02月09日
男木島で無事撮影に成功したしたおじいちゃん、さっそく帰ってタンク現像・引き伸ばし・印画紙四つ切大にカットして台紙に張り、
「初夏の瀬戸」と題したおじいちゃん会心の作が完成したのです。
そして、高松三越の写真部へ持参、懸賞に応募したのであります。
ところが、ちょうどその時、懸賞主催者である朝日新聞社の係りの人がいて、このおじいちゃんの写真を見るなり、バタバタと4、5人の人を呼んできたのです。
「素晴らしい!こりゃ大した写真じゃ。」と、皆異口同音に賛辞の連発だったのです。
面食らったおじいちゃん。順光線のため遠近感の表現されていない絵はがき大の写真、どこがそんなに良いのかわからない・・
しかし、全員が声を揃えて褒めてくれる。
「入選確実か!そんな自惚れに似た感情が頭を持ち上げてきた」
おじいちゃん、宙を飛ぶような足取りで飛んで帰ったのでした。
そして、3日後、朝日新聞の社員の訪問を受けました・・ (結果は明日ということで)
※実はこの写真が見当たらいんです・・実家に戻って探しておきますm(_ _)m
おじちゃんの撮った写真 その43
おじいちゃんの得意な「影」を
撮っているのが特徴でしょうか。
※写ってる人は不明です。
おじいちゃん懸賞へ応募する
2008年02月08日
朝日新聞社高松支局主催、高松三越支店写真部後援による「国立公園瀬戸内海」と題しての懸賞募集!
これを知ったおじいちゃん、五月の下旬一人定期船に乗り男木島へ渡ったのでした。
まさしく五月晴れの好天気。おじいちゃんの好きな白い雲がところどころに晩春の光を受けて浮かんでいます。
男木島の船着場で降り立った人は2~3人。当時は粗末なバラック建ての小屋が一軒あるだけでした。
そしてこの島の灯台に着いたおじいちゃん、灯台守の人から午後三時に日本郵船の上海丸がこの灯台の前を通る、と聞く。
近くの高台にカメラをセット。じっと待つ。
「見えた!来た!午後三時、白波を蹴立て二本煙突の上海丸が滑るように現れた。」
カシャ!
この写真が生涯忘れられない写真になるのでした。
追伸:
この時、男木島の灯台守は三組の夫婦生活で、それぞれに官舎が与えられていました。
昭和32年の木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の灯台守の歌から23年も前のことでした。
おじいちゃんの撮った写真 その42
おじいちゃんは
蒸気機関車が大好きでした。
おじいちゃん高松三越を撮影!
2008年02月07日
おじいちゃんは当時あまり売られていなかったパンクロマチックというフィルムや乾板を使用していたのです。
高松の三越の写真部に小林さんといういかにも芸術家らしい技師がいらっしゃいました。
ある日、おじいちゃんが焼付けを頼んでいたその写真を見た小林さんは「これはパンクロ原板だ。珍しい人だ。この写真を取りに来たら是非会いたい。」と、彼の助手に言っておいた矢先におじいちゃんが現れたので、早速にそのパンクロ撮影や現像方法など、逆にいろいろおじいちゃんに聞いてきたのでした。
これがきっかけになり、パンクロマチック乾板が三越で売られるようになりました。いつも東京から取り寄せていたおじいちゃんは大助かりです。
当時、高松には写真機店が二軒だけありました。いずれの店でもパンクロ乾板は売っていませんでした。
というより、「私がパンクロの話などすると、二軒とも狐に抓まれたような顔をしていた」とおじいちゃんの日記に書かれています。
おじいちゃんの撮った写真 その41 高松三越です
おじいちゃん次なる写真に挑戦
2008年02月06日
雲の写真の成功に気をよくしていたおじいちゃん、次々と雲を入れた風景写真を次から次へと撮っていました。
そんな頃、時々行く高松の田町にある岩本写真機店へ寄った時です。
陳列の中に、光の線を面白く出して街角を撮った四つ切り大の写真が目に止まったのです。
「光と影の織りなす構成美というものか、ありふれた風景写真とはその見方・狙い方がまったく違う。その写真は、まさしく芸術写真というべきか」
おじいちゃんの写真家としての本能がそこでまた燃え上がったのです。
フィルターの濃度や被写体をあれこれ変えて撮りまくったその腕前は、後に花開くことになります。
※田町の岩本写真機店さんを調べてみましたが現在はないようです。残念。
おじいちゃんの撮った写真
その40
光と影を織りなして・・
向こうから歩いてくるのは
着物を着た女性二人です。
この写真、確か何かの賞を
いただいてたはずですが・・
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん雲の写真を大自慢
2008年02月05日
当時、長尾町にあった百十四銀行長尾支店のA支店長とI支店長代理も写真に熱中していた仲間でした。この2人は主に人物を撮っていました。
おじいちゃん、さっそく雲の写った写真を長尾支店に持って行ったのです。
するとAさんとIさん、びっくり仰天、「雲が写るとは・・・!」
2人の様子に長尾支店内の行員全員が写真を取り囲むという騒ぎになったのです。
そのうち銀行に来てたお客さんが「写真機が良いからだ!」と言う人さえ現れました。
おじいちゃん、背筋をピンと伸ばして答える・・・「ピントの鮮鋭度がレンズの優劣に左右されることは理の当然でありますが、その他の写真の優劣は決して写真機によるものではありません。写真機はなんでもよろしいのです!」と。
百十四銀行長尾支店の行内は拍手の嵐になったそうです。
おじいちゃんの腕前と演説もさることながら、当時の銀行の中はなかなか人情と風情に溢れていますね~
おじいちゃんの撮った写真 その39
おばあちゃんを撮ったスナップ写真です。
おじいちゃん雲の撮影に成功!
2008年02月04日
前回にも書いたとおり、当時の写真撮影において、雲の撮影は非常に難しかったようです。
「私は、雲の魅力に取りつかれたようで、どうしても風景には雲はなくてはならない大きな存在であり、雲のない風景写真などはあり得ないのです」
当時の写真の大家、佐和九郎先生著の「整色写真の撮り方」を東京からわざわざ取り寄せ、これをむさぼり読んでは現像・焼付けを繰り返しました。
また、当時ではあまり売られていなかったパンクロマチックのフィルムや乾板を使用し繰り返しチャレンジしたのです。
四つ切サイズまでの引き伸ばし機まで手作りで製作したのです。
そして、晴天の昭和三年十一月中旬、冬らしい白い雲が泳いでいる午後二時、フィルター3号・絞り開放6.3、シャッター1/10、太陽の照るタイミングを狙いシャッターを切る。
そして現像・定着・水洗そして乾燥まで、原板操作・印画紙操作もすべてがおじいちゃんの手により完成されたその写真には見事にキレイな雲が写し出されていたのです。
「これは言葉では言い表せない。嬉しい、涙が出るほど嬉しい。」
おじいちゃんの撮った写真 その38
雲がはっきりと写ってます。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん、雲が撮れず!
2008年02月03日
その風景でもどうしてもうまく撮れないものがありました。それは・・・雲です。
白い雲がうまく写りません。
アサヒカメラ誌に掲載の入賞写真を見ても、風景で雲の写っている写真をあまり見たことがない。時たま見ても淡い感じの雲ばかりだったのです。
太陽光線の右端が赤外線、左端が紫外線で、写真の感光剤に一番反応するのがこの紫外線です。紫色がすべて白色に写ります。
あの美しい紫の藤の花が真っ白く写ります。それはそれでとても美しいのですが実際とはまるでかけ離れた現象なのです。
「画家は、こうした点から写真を非常に非難するのである」、とおじいちゃんの自分史「賢太郎抄」に書かれています。
この紫外線が邪魔をして乾光板に写らなくなる、だから雲を写すためにはこの紫外線を遮断しなければならなかったのです。
おじいちゃんの撮った写真 その37
写真の痛みがあってはっきりは
わかりませんが、力餅運搬競技かなと。
長尾寺かもしれません。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん、学報の表紙に!
2008年02月02日
おじいちゃんの撮っていた写真は風景が中心です。
大阪に嫁いでいたおじいちゃんの妹の家へ行った時、千里山にある母校の関西大学に立ち寄りました。
そこで、新しく建築された新館を撮影した写真がけっこう気に入ったおじいちゃん、これを大学の学級局へ送ったのです。
ところがこの写真が思いもかけず、「春光遅々」と題して千里山学報、昭和四年三月十五日発行の第六十七号の表紙に掲載されたのです!
「私は、嬉しくて嬉しくてたまりませんで、写真に対しての私の一文を書いて書斎に吊っておきました。」
残念ながらこの写真はいま見当たりません・・。
おじいちゃんの撮った写真 その36
昔はスキーのストックの先が丸かったんですね。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん写真の腕前あがる
2008年02月01日
人物写真の難しさに比べて、風景写真は自然のまま写るので、おじいちゃんは風景写真を中心に撮っていました。
アサヒカメラ誌などを見ると、月例懸賞写真の入賞作品がいろいろ載っている。
おじいちゃんは、いつが来たらこんな懸賞に応募できるような写真が撮れるのだろうかとため息が出るのでした。
それでも工夫を重ね、オリジナルな原板を作ることもできるようになり、これは写真機店の方が見学に来られて是非使わせて欲しいと言われるほどまでに腕を上げていきました。
そうこうしてるうち、昭和四年おじいちゃんの村にも電気が通り、電燈が灯るようになったのです。
この時のことを、当時新婚ホヤホヤのおばあちゃんが、「まるで昼間のように明るかった」と、ボクに話してくれたこと覚えています。
詳しくはこちらの日記に書いています。
おじいちゃんの撮った写真 その35
汽車の窓の外に身を乗り出して
撮ったんですね。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん写真に悪戦苦闘
2008年01月31日
凝り性のおじいちゃんは、原板の現像から写真の出来上がりまで、すべて自分で出来ないと気がすまないということで、松山から帰宅後、自宅の納戸を改造して暗室にしてしまいました。
そして、松山で買って帰ったランプを灯して、さっそく現像を施してみたのです。
(当時のおじいちゃんの村ではまだ電気が通っていませんでした)
案の定、初心者でうまくいくはずもなく、その後おじいちゃんは写真の本を読みまくり、独学で写真を習得していきます。
しかし、どうしても自分の気に入ったものが出来ない、その3つの難関がありました。
1.肉眼の方が皆美しい ・・・・ (そりゃそうじゃないの、って思うんだけど)
2.顔のシワが肉眼より細々と写り過ぎる ・・・・ (へえ、そんなもんなんやね)
3.年齢より老けて見える ・・・・ (当時の白黒写真なら仕方ないんじゃないのかな・・)
おじいちゃんの撮った写真 その34
舞妓さんでしょうか。
仲が良さそうですね。
まとめておじいちゃんシリーズ
おじいちゃん写真家目指す
2008年01月30日
昭和二年四月、おじいちゃんは松山へ向かう汽車の中でした。
実はおじいちゃん、叔父さんの家に遊びに行った時、その叔父さんが持っていた写真機と撮った写真にひと目で魅入られ、自分も写真をやりたい!と思ったのです。
写真を撮るには写真機が必要です。写真機を求めてわざわざ向かったのが松山の小西写真機店。
六桜社製のアイデアー1号名刺型、乾板用のカメラを三十五円で購入。 (この写真機、どなたかわかります?)
このお金はおじいちゃんが関西大学時代に、ひいおじいちゃんからの毎月五十円の仕送りの中から少しずつ貯めたお金でした。
店員から撮影方法を教えてもらって、さっそく近くの裁判所や住宅街を撮りまくったのでした。
「これが私の写真生活へ這入る第一歩になったのである」
おじいちゃんの撮った写真 その33
正確にはおじいちゃんの撮った自分の写真。
鏡でうまい具合に撮ってますね。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん自分史第五巻へ
2008年01月29日
これが第五巻「讃光の記」。
中を開くと・・
全部、手書き。
男の子がボクのオヤジ。
従って女の子はボクの叔母さん、ということに。
ところで、二人が触っているこの船は・・
そう、この船です。
↓

ぜ~んぶ、
おじいちゃんの手作り。
浅間丸です。
こちらでも紹介しました。
とにかく器用な
おじいちゃんでした。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん、関西大学卒業
2008年01月28日
三月二十四日が卒業可否発表。二十八日が卒業証書授与式(卒業式)。
卒業試験の結果には自信のあったおじいちゃん、卒業式まで日数もあるのでいったん実家に帰ることに。
卒業式まで家でのんびり過ごしていた矢先、なんとおじいちゃんのお父さん(つまり、ひいおじいちゃん)が、「卒業式出席まかりならぬ」と反対したのです。
理由を必死に尋ねるおじいちゃん。
すると、ひいおじいちゃんいわく、「学生としての勉学のすべての役割が終わったから羽を伸ばし悪事に誘われる。例えば遊郭へ行く」、と。
考えもしていなかったおじいちゃんは大笑いしてしまいました。
ひいおばあちゃんも今回ばかりは、一緒になって説得してくれましたが、「父は頑として反対。残念至極」と、自分史「賢太郎抄」に書かれています。
こうして、おじいちゃんは、卒業式欠席のまま無事関西大学を卒業したのです。
ウワサをすれば出てきました。
ひいおじいちゃんの
若い頃の写真です。
おじいちゃんは、こんな古い写真まで
ちゃんと保存しているんです。
まとめておじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん、朝の散歩。
2008年01月27日
大正十三年、おじいちゃんは関西大学専門部法律科の3年生。
この年の冬休み、おじいちゃんは三木町井戸の実家に戻っていました。
早朝に起床して、井戸八幡さん(地元の氏神さん)まで散歩。足の悪いおっじちゃんだと20分の距離。
冬の早朝ゆえ神社の森はまだ暗く、お参りの柏手の音も異様に辺りに響くのです。
翌十四年一月一日も同じように八幡さんへ散歩すると、正月のために神殿に御燈火が輝いていました。
ただこの頃、田舎はまだ旧正月を祝っていたので参詣人は一人もいないのでした。都会では新正月を祝っていたのでおじいちゃんは日本人らしくない気持ちになったようです。
現在おじいちゃんの家は親父が住んでいますが、僕の家はその隣りです。僕もほぼ毎朝通勤前にこの八幡さんへ参っています。
80年以上の時を経て、おじいちゃんと同じ参道を歩き同じ場所で同じように参拝していることに感動と感謝の念を抱くのです。
ここがその八幡さんです。
おじいちゃんの撮った写真 その31
昔の水着と水泳帽が印象的です。
おじいちゃんシリーズまとめ。