おじいちゃん、夜店に通う。
2008年01月26日
自分史「賢太郎抄」に大阪の初夏の夜店の様子が書かれていますので紹介します。
「都会の夜店というものはまた一種特別の休息地であって、田舎では到底想像もつかないものである」
「一筋の街の通りに、裸身電燈を一列にぶら下げて、その下にいろいろな店が並んで客引きをするのである」
「高級品はないが、一般の店より安く売られ手軽に何でも買える便宜な夜の市場である」
「ヴァイオリン片手に流行唄を吟じて歌本を売っている演歌師もいる」
「夜店の長さは大体二町くらい(一町が約110m)で、その両端には必ず植木屋と古本屋が陣取っている」
「うどん屋もいればすし屋もいる。そして大体夜半の一時ごろまで賑わうのである」
昔は街なかも風情があったんですね。
おじいちゃんの撮った写真 その30
当時はこんな格好でスキーをしてたんですね。
おじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん、進路を語る。
2008年01月25日
小児麻痺を患って足が悪かったおじいちゃんの卒業後の進路については家族・親戚の者も心配していました。
おじいちゃんの叔父さんがある日尋ねました。「賢太郎君は来年卒業だが、卒業後何をするつもりか?」
おじいちゃん答えて、「私は体が悪いから皆さんのように何処へでも好む処へは就職は出来る筈はないと思っています。せめて役場へでも行けたなら良いほうだと思っています。役場の戸籍係にでもなれたら良いほうではないでしょうか」
恐々答えると、T村の元村長であった叔父さんは曰く、
「そうか、君は偉いぞ!感心した。田舎の役場で君のような人が仕事をしてくれたら村民は喜ばねばならぬ。君のように法律を勉強している者こそ戸籍事務などには最適任者である。大いにやってくれ!」
おじいちゃんは、面喰らったと同時に、涙が出るほど胸が熱くなったのです。
おじいちゃんの撮った写真 その29
大人の両足の間からのアングルです。
おじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん高等文官に?
2008年01月24日
この年、ある文部省令が出されました。
翌十四年の専門部法律科卒業者からは、高等文官試験の予備試験免除の資格が得られる、というもの。
これにより、この資格を得るために去年までの卒業者が1ヵ年留年するため多勢再入学してきたのです。それは全国的に起ったことだそうです。
「高等文官試験」って何か調べてみると・・
明治時代に始まり戦後に廃止された高級官僚候補生の資格試験のこと。この試験に合格すると文官(行政官)、外交官、領事官、判事、検事に任用される資格を得るのです。
ま、おじいちゃんには関係なかった職種です。
おじいちゃんは小児麻痺を患いビッコをひいていたせいで、当時社会的にはまだまだ「不具者」というレッテルを貼られたままです。
自分はは卒業したら何になるのかをそろそろ考えなくてはならない時期でした。 (つづく)
おじいちゃんの撮った写真 その28
これは何をしているのでしょう?
この道具は、草を刈る道具では?
おじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん、大地震に驚く。
2008年01月23日
この年の夏休みに久しぶりに三木町井戸の我家に帰っていました。
単調な夏休みが続くのですが毎日、熊田池に水泳に行くのが日課でした。
と言ってもおじいちゃんは足が悪いので泳ぐことはできません。泳ぐマネをするわけです。
もちろん現在の熊田池では泳ぐことはできません。当時は大抵のことはOK牧場だったんですね。
そんな日々を送ってるうちに9月1日お昼頃でした。軽い地震を感じたのです。
「ところがこれが、東京を中心とした関東大震災になろうとは夢にも思わなかったのである」と、自分史「賢太郎抄」に書かれています。
長尾郵便局前で、被害状況が次々と発表され、その被害の甚大さがようやくまわりにも伝わってきたのです。
軍隊が出動し、ついに戒厳令が布告されるに至ったそうです。
おじいちゃんの撮った写真 その27
場所がよくわかりませんが、津田の松原でしょうか。
おじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん大阪暮らしを満喫
2008年01月22日
大正十二年、おじいちゃんは関西大学2年生で大阪の一人暮らしを謳歌していました。
おじいちゃんは、天下茶屋にある髪結い屋の2階に下宿していました。
この辺りは別荘地帯で日曜になると上品な娘さんたちが次々と髪を結いに来てました。おじいちゃんの友人のM君は、用もないのに日曜ごとによく遊びに来てたのです~
映画好きだったおじいちゃん、映画を見てはM君とよくミルクホールへ行っては雑談にふけっていました。
※ミルクホール・・・大正時代に作られた喫茶店を意味する造語です。
ミルクセーキやライスカレーなどが定番だったのでしょう(^^)
おじいちゃんの撮った写真 その26
場所は不明ですが、どこかもの悲しさを感じますね。
おじいちゃんシリーズ。
おじいちゃん徴兵検査その2
2008年01月21日
役場の受付の兵事係の怒鳴り声を浴びたおじいちゃん、優しい軍医の検査を受けてやっと小児麻痺という診察結果が出ました。
一人だけ足がビッコをひいてることが、みんなの目にも触れ、男子徴兵の栄を受けることができない身を恥じたのです。
他の検査はすべてパスとなり、最後の決定で陸軍少佐が大声で、「へーいしゅ(丙種)、不合格!」と叫びました。
「これで私のすべては終わったのです」と、自分史「賢太郎抄」に書かれています。
この日を検査を受けた男子は200人くらい。その内、甲種合格者は25人ほどで、あとは第一乙と第二乙も合格。
丙種がおじいちゃん含め4~5人。まだその下に丁種というのがあって2~3人いたようです。
ちなみに調べてみると、丙種とは「身体上極めて欠陥の多い者」、丁種とは「目や口が不自由な者・精神に障害を持つ者」という定義だったようです。
おじいちゃんシリーズのまとめ。
おじいちゃん徴兵検査うける1
2008年01月20日
この時、徴兵検査の出頭命令が届きました。
この徴兵検査の時の様子は、おじいちゃんから直接聞いたので覚えていて、12月のブログにも書きました。
今日、おじいちゃんの自分史「賢太郎抄」を読んでいてその時の様子が書かれていましたのでまた紹介します。
おじいちゃん、徴兵検査場である役場に出頭すると、受付にこう聞かれました。
「おまえ、合格したら兵役1年志願するのだろう?」
「いえ、しません。できないです。」
「な、なぜだ!」と怒鳴られる。
「私は、子供の頃に小児麻痺を患っております。まともに歩くことができません」
「そんなことを自分勝手に決められるものではない!!」と、また怒鳴られる。
おじいちゃんは、役場の兵事係という者は実に高飛車で偉そうにするものだと思ったそうです。 (つづく)
おじいちゃんの撮った写真 その24
田舎ののどかな風景で、農家のおうちに日の丸が立てられています。
おじいちゃんシリーズはこちらに。
おじいちゃん自分史第四巻
2008年01月20日
賢太郎抄 四
=春愁の記=
いまこれを読書中。
おじいちゃんがちょうど徴兵検査を受けた時を読んでいます。
今晩をそれをアップ予定。
大正時代の映画好きな祖父
2008年01月19日
入学式の際の山岡学長の式辞の中に「諸君は今日から関西大学の立派な紳士である。制服制帽で堂々と映画館へ行ってもよい!」という言葉に胸を打たれたおじいちゃんは根っからの映画好き。
日曜ごとに道頓堀の朝日座へ松竹映画を見に行ったのです。
「洋楽の伴奏で映写される封切りの新しい映画劇は、田舎の活動写真とはまったく比較にならない」と自分史「賢太郎抄」に書かれています。
日本で初めてのトーキー(映像+音声)映画は昭和6年、田中絹代主演の映画なので、この時の映画は当然「声なし」ですね。
やはり松竹の「丑三つ時」という映画を花井三昌の解説付きで見た時は感動したようです。
花井三昌・・・活動弁士かと思い調べましたが違うようです。解説者のようで解説が字幕で出たものと思われます。
おじいちゃんの撮った写真 その23
和服を着た女性2人と洋服の女性が散歩していますね。
おじいちゃんシリーズこちらにまとめ。
おじいちゃん、関西大学1年生
2008年01月18日
大正十一年九月、おじいちゃんは関西大学専門部法律科へ無事入学。 ピカピカの1年生。
新設されたばかりの関西大学は新時代の先端を切って男女共学。
中学時代と違ってまったく自由。出席は、登校したら係官が各自の聴講券に○に「出」の字の捺印をするのでした。
そして、休憩時間には法科の上級生が自慢の演説をブツのです。
水平社運動の演説が多かったとおじいちゃんの自分史「賢太郎抄」に書かれています。
水平社運動?
調べてみました。大正11年に結成された全国水平社を中心に全国的に広がった部落差別開放運動です。
熱い学生たちとの語らい、論客実に多しと書かれています。おじいちゃんも熱かった!?
おじいちゃんの撮った写真 その22
田舎の風景。
昔は人と牛は共同体。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめ。
おじいちゃん関西大学へ
2008年01月17日
と言っても、自分の体が不自由なせいで行きたかった美術学校への進学も断念。
そんな時、大阪の朝日新聞に関西大学が新装するというお知らせを発見。さっそくおじいちゃんは規則書を取り寄せる。
見ると、新大学令により設立されるものであり、入学条件に身体のことは何も書かれていない。
案の定、ひいおじいちゃんは猛反対。しかしおじいちゃんは「三日三晩、父につきまとい懇願した」と自分史「賢太郎抄」に書かれています。
こうしておじいちゃんは、大正十一年九月 関西大学専門部法律科へ無事入学が許可されたのです。

この人、誰かわかります?
児島 推謙(こじま これかた)
明治24年、滋賀県で津田三蔵巡査がロシア皇太子ニコライに刀で切りつけ負傷させた。
当時の政府は対ロシア外交を考慮して津田の死刑を要求したが、大審院長児玉惟謙は司法権の独立のために拒否した。
と、歴史で習ったこの人が、関西大学のの校祖と言われています。(前身:関西法律学校)
おじいちゃんの撮った写真 その21
看護婦さんですね。
こういう格好がその頃の制服だったんですね。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめ。
おじいちゃん旧制中学を卒業
2008年01月16日
とうとう卒業の時がやってきました。
三本松中学、鳥取中学、津山中学と転校を繰り返したおじいちゃんにとって、親身になってくれた先生や友人が多勢いたこの津山中学が一番思い出深い学校であったと、自分史「賢太郎抄」に書かれています。
津山中学を卒業間近なある日、教頭先生の訓示がありました。
「諸君は、結婚適齢期と言っても決して過言ではない。もし昔であれば諸君らの年になればもう子供の一人くらいはいたものだ。」
「現に、諸君の中には結婚のための調査依頼が学校の方へも来ている。大切な事なので担任の先生とも相談してその生徒の態度など詳しく調べ責任を持って回答をしている」
「とにかく大切なのは真面目にその日その日を送る事だ」
みんな固唾を呑んで聞き入った、と書かれています。
旧制中学5年生、現在の高校2年生17歳の春です。
おじいちゃんの撮った写真 その20
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめてます。
おじいちゃんの進路
2008年01月15日
おじいちゃんは小さい頃から絵や図画工作が得意でした。津山中学でも図画の試験はいつも満点でした。
自分の進路について教練のO先生や図画のS先生が親身に相談に乗ってくれたのです。
そんな応援もあり、おじいちゃんは東京上野の美術高等学校へなんとしても行きたかったと、自分史「賢太郎抄」に書かれています。
しかし、大きな壁が立ちはだかっていたのです。
一つは、ひいおじいちゃんの反対。理由は一人東京へ行くと都会の誘惑に誘われる。当時父親の権限は絶対でした。
もう一つは、おじいちゃんは小児麻痺で右足がビッコをひいていたのですが、当時どこの高等学校の入学規則書を見ても受験資格の条件に身体健康な男子とする、という項目がありました。
特に、おじいちゃんのような人間を不具者と定義し、「不具者は奇形児とみなす」との説明までついていたのです。
美術学校への進学は断念せざるを得ませんでした。 (つづく)
おじいちゃんの撮った写真 その19
荷車を馬が引いています。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめてます。
おじいちゃんの右足凍る。
2008年01月14日
大正9年。ボクのおじいちゃんは岡山の旧制津山中学の5年生。中学生活最後の年です。
津山は山間部のため夏は涼しいのですが、転校前の鳥取と違って冬は雪はあまり降りませんが相当寒いようです。
現在のように、冷暖房完備というわけにいきません。
おじいちゃんの自分史「賢太郎抄」によると、「書きものしようにも冬はインクが凍ることもある」と記されています。
また、登校前には靴がカチンカチンに凍っていて、ビッコをひいている悪い方の右足を差し込んで、火の気のまったくない教室での授業は痛ましいほど苦痛だったそうです。
1時間目が終わったころ、靴が溶けだして濡れた足の型が残るのです。
そんな右足を見て英語のN先生は「君は小便室へ行って足を温めてきなさい」と親切に言ってくれた時は胸が熱くなるほど嬉しかったのです。
三学期になると、雨天体操場に炭火を入れた大きな火鉢を5箇所に置いて、休憩時間になると生徒たちがあたりにくるのです。
そんな時代でした。
おじいちゃんの撮った写真 その18
どこかの海岸です。
寂しそうな情景ですね。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめてます。
おじいちゃんのおじいちゃん
2008年01月13日
実はこの年、おじいちゃんのおじいちゃんが亡くなっています。胃がんでした。
そのためおじいちゃんのお父さんは、家を継ぐため裁判所を退官しています。
おじいちゃんは津山で一人生活を送ることになりますがかえって楽しい毎日を送れたそうです。
ちょっと整理。
おじいちゃんは祖父って言います。(知ってるわ)
おじいちゃんのお父さんは曽祖父と言いますよね。
そのまたお父さんは高祖父と言います。 その高祖父の写真は残念ながらありません・・ (つづく)
おじいちゃんの撮った写真 その17
写真の痛みがあってわかりづらいのですが、子どもたちがボール?で遊んでいます。
みんな着物ですね。
おじいちゃんシリーズはこちらに。
おじいちゃん女学校の運動会へ
2008年01月12日
鳥取から津山へと抜ける鉄道は当時ありません。
なので、鳥取から大回りしていったん姫路へ出て、そこから山陽本線で岡山へ。そして津山へと列車(蒸気機関車ですが)の旅が続くのですが、1日がかりだったようです。
旧制津山中学では、よい先生たちに恵まれ楽しい学校生活を送ることができました。
女学校の運動会をなぜ男子中学生が見てはいけないのか!という校長が女学校の校長と談判。結果交渉成立で全員で女学校まで見学に行った時の喜びやいかに!
でもおじいちゃんは、「女学生がすれ違うたびに自分の方が顔を赤くしていた」と。
ビッコを引いていたおじいちゃんは、当時不具者と言われ、「こんな自分を好いてくれる人は一生いないのではないだろうか」と、内心不安を覚えるのでした。
おじいちゃんの撮った写真 その16
場所は不明ですが水面にキレイに木陰が映ってますね。
おじいちゃんシリーズをまとめています。
人力車に乗って家族旅行です~
2008年01月11日
あくる年の正月に家族4人で旅行に行ったのです。おじいちゃんの姉と、おじいちゃんの父母(つまりボクのひいおじいちゃんとひいおばあちゃん)とで。
出雲大社に参詣してから宍道湖を通って松江に向かったと、「賢太郎抄」に書いてあります。 んん・・一体どうやって行ったのか。
そう、4人が人力車4台に分乗してのドライブなのです~
地図で見ると40キロくらいある。高松から白鳥まで人力車4台でドライブした感じ。しかも真冬に。
視界をさえぎるほどに粉雪が降ってきたので、おじいちゃんは人力車を引っ張る車夫がかわいそうでならなかった、と。
しかし、人力車の幌(ホロ)の中から見える宍道湖は、雪に溶け合って遠くがかすんで見え、それが一層の遠近感を強め、その湖面の滑らかさを強調して実に見事な日本画を描き出している、と書かれています。
情景が浮かぶようです・・
おじいちゃんが撮った写真・・ではありません!
なぜなら、小さな男の子が写ってるでしょ。実はこの子がおじいちゃんです!

女の子はおじいちゃんのお姉さん。
つまり、後ろの大人は、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが写っているのです!
こういう写真まで、ウチのおじいちゃんは大事にとっているのであります~
おじいちゃんシリーズまとめはこちら。
昔のテストは甲乙丙!
2008年01月10日
ちなみに、ひいおじいちゃんのお仕事は判事さん、つまり裁判所の裁判官ですね。なのであっちこっち転任する。
旧制鳥取中学でのおじいちゃんの成績はと言うと、「丙」ばかりであったそうな。
わかり易く言うと、86点以上が「甲」、85点~75点が「乙」、74点~65点が「丙」、もっと下は「丁」だそうです。
ただ一つ、おじいちゃんの描く「絵」だけは学校中の先生たちが感嘆するほど上手だったそうです。
追伸:おじいちゃんの自分史「賢太郎抄」には「六ケ敷しい」という文字があちらこちらに見受けられます。今では「難しい」と書きますが。
おじいちゃんの撮った写真 その15
一両電車が走ってます。よく見ると電車の屋根から電線に斜めにポールが伸びています。(これなんて言ったっけ?)
ちなみに、鳥取の雑煮は「ぜんざい」だったそうです。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめてマス。
大正時代の夏休みの外出は~
2008年01月09日
待ちに待った夏休みがやってきました。
当時、三本松港から高松港へは定期船が行き来してたようです。
おじいちゃんの父と母(つまりボクのひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃん)は、当時岡山に住んでいましたので、高松から連絡線で宇野へ渡り、あとは汽車に乗って岡山へ。
夏休みに入る前の全校生徒への三本松中学の校長先生の訓示がすごい!
「長い夏休み中、中学生にあるまじき行為は決して行なってはならない。家から外出する時は制服・制帽、あるいは着物の時は必ず袴(はかま)を着用すること!」
昔の人はエライ!
おじいちゃんの撮った写真 その14
な~んか、情緒がありますねえ。
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめてマス。
おじいちゃん軍事教練うける。
2008年01月08日
授業の中でおじいちゃんが一番困ったのが「武道」と「教練」。
武道は剣道と柔道。教練というのはいわゆる軍事訓練です。
右足がビッコを引いているおじいちゃんにとってはどちらもムリな話。
柔道は見学でOKだったのですが、剣道は木剣で型の基本練習をさせられました。ここまではなんとかクリア。
教練の先生は陸軍中尉の豊島先生と陸軍曹長のH先生。
豊島先生は、教練が始まってすぐ「よし、除隊してよろしいー!!」と号令してくれるのですが、H先生はなかなか言ってくれない。
横隊行進で方向転換する時、走らなければなりません。道行く人が珍しげに見ているなか、おじいちゃん一人みんなからおいてけぼり。歯を食い縛ってついて行ったそうです。
おじいちゃんの撮った写真 その13
影を上手に撮ってますよね~
おじいちゃんシリーズはこちらにまとめてマス。